【仏青通信】三人の師

郡家別院では若手僧侶の集まりである「仏教青年会」のコラムをまとめた『仏青通信』を配布しています。ホームページ転載にあたり、一部加筆、修正を行っています。

ようこそのお参りでございます。

おそらく皆さまは、身近な方、大切な方を亡くされたご縁で、今日お参りになられたことでしょう。

身近な方、大切な方が我身をもって私たちに教えてくださっておること、それは、私は死すべき身であるということ、無常の身であるということです。

しかしそのことになかなか気づけない、まだ大丈夫と思っているのが私たちです。それだけ自我が深いということでしょう。

初期仏教経典にこういう話があります。

ある男が自分の好き勝手に生きて、奥さんや子供に迷惑をかけて亡くなった。

三途の川を渡り、冥土の旅をする中で三十五日に閻魔様の前に引き渡されます。

閻魔様が浄玻璃鏡という生前の行いを映し出す鏡で男を見ると、「まあ、お前ほど好き勝手に生きた人間はおらん、もうお前は地獄に行け」と宣告します。

そうしたら男が、「いや、ちょっと待ってくれ。確かに俺は好き勝手に生きてきたけど、俺を導いてくれる人がおらんかったからこうなったんや。俺一人の責任ではない。だから地獄行きはおかしいんじゃないか」と訴えます。

そうしたら閻魔様が「そしたら聞くけど、生前に老人を見なかったか?」男が「おお、なんぼでもおった」「そしたら病人は?」「ああ、病人もようけ見た」「死人は?」「もちろん何回か葬式に出たことがある」と答えたら、閻魔様が「お前は導いてくれる人がおらんかったと言うけど、ちゃんとおったやないか。老病死という命の中身を教えてくれる先生がおったやないか。それに気づかんお前が悪い」と言って男は地獄に落とされたという話です。

私の命について何も考えずに人生を送る。それはそれで良いんでしょうが、限りがある命、また、病気とは、老いとは、歳をとるとはどういうことか自己自身に問うていく。

忙しい毎日ではそんなことはすっかり忘れ、問題にさえしていなかったけれども、身近な人の死を通して私の人生の課題として受け止めていく。問題と課題とは意味が違います。問題は私と関係のないこと。課題は私自身のこと。老病死が私の人生の課題となった時、これからの生き方が変わる。

法要というのは、身近な人が身をもって教えてくれたことを私の課題として受け止め、これからの人生をどういう心掛けで生きていくかを、考えさせていただく大切な機会であります。

第九組 光明寺
直井 了純