当寺メールアドレスが変更しました

【仏青通信】仕事がある内は人生は楽なんよ。やることがなくなってから人間の値打ちが問われるんよ。

郡家別院では若手僧侶の集まりである「仏教青年会」のコラムをまとめた『仏青通信』を配布しています。ホームページ転載にあたり、一部加筆、修正を行っています。

数年前、母方の祖母が存命のころ、祖母が暮らしていた松山の高齢者施設に伺いました。

施設を訪ねると、ちょうど廊下には祖母とご友人の方々が集まっておられ、私も輪に入れていただいてしばらく楽しくお話をしました。

施設での暮らしのこと、ここで出会った方々のこと。

職員さんとの関係も良好で楽しく暮らしていると様子が伺えとても安心しました。

その何気ない会話を楽しんでいたとき、当時94歳のご婦人が最後にふとこんな言葉を口にされました。

「仕事があるうちは人生は楽なんよ。どんなにしんどい言うても、やることがあるからな。子育ても仕事も、言うたら作業やろ。作業があったら、人間はまだ楽なんよ。ほんまにしんどいんはな、仕事が無くなってからや。やることが無くなってから、人間のほんまの値打ちが問われるんよ。」

冗談まじりの口調でしたが、その言葉は胸に深く響きました。

私たちは生まれてから今日まで、さまざまな役割を担いながら生きてきました。

親として、子として、職場の一員として、地域の一員として。役割があるということは、必要とされる場所があるということです。

忙しさの中に身を置きながらも、どこか安心していられるのは、その「やること」があるからなのかもしれません。

けれども、年を重ね、仕事を退き、子どもが巣立ち、社会的な役割が少しずつ離れていくとき、ふと心に浮かぶ問いがあります。

「私は、何者なのだろう。」
「私の人生は、何だったのだろう。」

肩書きや役割が一枚ずつはがれていき、最後に残るのは、生身の自分自身です。

そのとき、自分を支えるものは何でしょうか。

お寺にお参りに来られる方の中には、こうした問いを胸に抱えておられる方も少なくありません。

日々の忙しさに追われているときには、なかなか向き合えなかった問いです。仏さまのお話を聞くことは、何か特別なことを学ぶためというよりも、「肩書きのない自分」を見つめ直す時間なのかもしれません。

人は、何かができるから尊いのではなく、何かの役に立つから価値があるのでもありません。

できることが減っても、役割がなくなっても、いのちそのものが尊い。仏教の教えは、その事実に気づかせてくれるものではないでしょうか。

あのご婦人は、最後にこんなこともおっしゃいました。

「この施設に来て2年やけどな、いろんな人がおる。この年になっても、学ばせてもらうことばっかりやわ。」

94歳になってなお「学ばせてもらう」と語るその姿に、私は深く心を打たれました。

仕事がなくなっても、役割が変わっても、人はなお、学び、出会い、育まれていく存在なのです。

あなたは「肩書き」がなくなったとき、自分を支えるものをお持ちでしょうか。忙しいときには気づきにくい問いですが、いずれ誰もが向き合うことになる問いでもあります。

お寺という場所が、その問いに静かに耳を澄ませる場となり、あなたの歩みをそっと支える存在でありたい。そう願いながら、この言葉を思い返しています。

第九組 善照寺

三原 貴嗣