郡家別院では若手僧侶の集まりである「仏教青年会」のコラムをまとめた『仏青通信』を配布しています。ホームページ転載にあたり、一部加筆、修正を行っています。
人間にとって、一番悲しいことは「忘れられること」です。
自分のことを誰にも心に留めてもらえない、存在しなかったかのように扱われる。これほど冷たい世界はありません。
一方で、誰かが自分のことを思ってくれている、誰かが自分のために手を合わせてくれていると感じるとき、自分もまた他の人のことを思うことができます。
たとえその人がもうこの世にいなくても、「あの人ならこう言うだろうな」「あの人はこう願っていたな」と思い起こすとき、その瞬間に、私たちは独りぼっちではなくなります。
「自分さえよければいい」という生き方は、思いやりをなくし、他者を忘れる生き方です。
他者を忘れるということは、巡りめぐって自分も誰かから忘れられていく孤立した世界になります。
今、社会に広がる「人を傷つける暴力的な言動や振る舞い」の根底には、相手の痛みを感じる心の欠如、すなわち「人を思う心」が失われてきているように感じます。
浄土真宗の大切なお経文である『仏説無量寿経』に「仏仏相念」という美しい言葉があります。
「仏様と仏様が互いに思いあい、拝みあっている」という世界を表しています。
仏仏相念の世界を私たちの社会に当てはめてみてください。
相手を「憎しみあう敵」や「便利な道具」としてみるのではなく、一人の尊い存在として敬う。相手の中に「仏」を見いだし、手を合わせる。もしそんな社会であれば、自分の都合で他者を傷つけたり排除したりできないはずです。
もし私たちが「自分こそが正しい」「相手が間違っている」と互いに指を差しあっていたら、そこには争いしか生まれません。
しかし、もし私たちが相手の存在を尊いものとして敬い手を合わせられ、「自分にも至らないところがあった」と頭を下げることができたなら、私たちの心は「仏仏相念」の世界に近づくでしょう。

たとえ相手に対して直接手が合わさらなくても、心の片隅に「生かされている自分」への謙虚さがあれば、誰かを蹴落とし、誰かの悲しみを笑ったりするようなことはできないはずです。
そんな思いあえる「仏仏相念」の世界こそが、今の社会に求められているのではないでしょうか。
浄土真宗の教えでは、私たちが手を合わせる心を他力回向の働きとして受け止めます。
「私が亡き人を思ってあげている」のではなく、「仏様となった亡き人の方から、この私を思わせ、手を合わせさせてくれている」のだといただけます。
自分さえよければいいと孤独に走ってしまう私を、「見えないところで、みんな繋がっているんだよ」と呼びかけ、包み込んでくれる願い。
その願いに気づかせていただくことが、亡き人から私たちに届けられた本当の供養だと思います。
今日のこの法要は、ご家族らのありし日を偲ぶとともに、自分自身の生き方、周りとの繋がりを問いなおす場でもあります。
排他的な言葉や振る舞いが飛びかう時代だからこそ、私たちは相手を思いやる供養の心を大切に守っていかなければなりません。
「自分ファースト」の閉じこもった殻を破り、誰かと共に養われ、共に生きている。
その心を大切にしてほしいです。誰かを思う心は、巡りめぐって、あなた自身を支える力になるはずです。
第九組 円龍寺
金倉 克啓