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【仏青通信】死を想い、今日を生きる

郡家別院では若手僧侶の集まりである「仏教青年会」のコラムをまとめた『仏青通信』を配布しています。ホームページ転載にあたり、一部加筆、修正を行っています。

昨年、東京大学名誉教授の養老孟司さんがラジオでお話しをされていました。

彼は、今88歳で、一昨年に肺がんが再発して、いつまで生きることができるかわからない状態でした。

そんな彼がその時の心境を語っており、「目にしている日常が変わって来る。」、「人生が無限な内は無限分の一で、日常の重要性に気が付かないんだと思います。」と仰っていました。

日本の伝統的な神道の考え方では、「死」を穢れ、つまり「清浄」または「神聖」でないものとして解釈します。

そのため、四十九日の法要が終わるまでは、亡くなった方だけでなくその身内も神域に立ち入ることが一般には許されていません。

一方、仏教の考え方では「死」を穢れとはみなしません。

「死」は「生」があれば必ずあるもの、つまり因果の道理として説かれています。

「生」は因で「死」は果だということです。

「死はかねて生のうちにあり」と吉田兼好は言いました。

人間は生まれたら、必ず死がある。いつ死ぬかわからないんですね。

『死を忘れたら生活が滅ぶ』『死を恐れたら生活は沈む』『死を見つめたら生活は輝く』という言葉がありますが、今日一日が大事だということです。

最後に、中世のヨーロッパの修道院でのラテン語の挨拶をご紹介させていただきます。

『「メメント・モリ」(死を想え。)「カルペディエム」(その日一日の花を摘め、今を生きよ)といいます。

それを対句にして、挨拶になるのだそうです。

「死を想え」ということと「その日を生きろ」ってことが対になっているということは、自分の人生が縮んで来ると具体的な瞬間が大きくなって来る。

一日が長いというより重くなって来るんですね。

そういう感覚を自分で実感するというのが歳ですねぇ。やっぱり。「死を想え。」というと、「精一杯生きろ」っていう返事が返って来る。

正にそのことなんですよ。』と締め括られていました。

第九組 浄蓮寺

千葉 誠心