【仏青通信】暑いのでお墓参りやめても良いですか?

郡家別院では若手僧侶の集まりである「仏教青年会」のコラムをまとめた『仏青通信』を配布しています。ホームページ転載にあたり、一部加筆、修正を行っています。

茹だるような暑さの続く今日この頃、皆さま如何お過ごしでしょうか。
 
今年は梅雨も一瞬で終わり、かと思えば台風のような雨が降ったりと、不思議なお天気が続いております。

晴ればかりで暑さが増すのも困るけれど、雨のジメジメもまた鬱陶しい。

「雨を喜ぶも厭うも我が心次第」「あるがままを有難く受け取ってゆきましょう」とはいうけれど、物事には限度というものがあってですな…冷房の効いた部屋から出たくない。
 
ときに先日、お参りさまよりこんな相談を頂きました。
 
「毎年お盆にお墓参りをしているけれど、暑くてつらい。正直もう行くのをやめたいです。けど、こんな理由でお参りをやめてはダメですよね。」
 
古くは、農作業が落ち着いて家族が集まりやすい時期だったお盆時期。

故に、その頃お盆参り・夏法座が勤められたそうです。
 
しかしまぁ、現代となってはお盆参りも一苦労。

立っているだけでも火傷しそうな炎天下。

そんな中でもお参りに向かう姿勢は素晴らしい限りだけれど、「しんどいから行きたくない」という気持ちもまた否定は出来ません。

御先祖様も御浄土まで参りに来いとは言いませんて。
 
「墓の下に庄松は居らん」

江戸~明治時代にかけて活躍された妙好人『庄松同行』はこんな言葉を残されました、千の風より100年以上前のことです。
 
「お墓・お寺へ行くこと」と考えがちな「お参り」ですが、実はそうではなく、「ご先祖さまを想うこと」が大切なのだそうです。

「参」という言葉は「人が集まる・会う・関わる」という意味を持っており、亡き人とは「想う」ことで会えるそうな。
 
「形は滅びても人は死なぬ」
明治~昭和時代にかけて活躍した仏教学者『金子大栄』氏の言葉です。
 
人の肉体には終わりが来るけれど、その人の死を「悼み・弔う」者が在る限り、心は消えない。

存在は残り続け、後をゆく人々へ生きる力を与え続ける。

人が「仏」に成るとは、そういうことである。
 
この心から見れば、冷房の効いた部屋でアイス食べながら先祖について語り合うことも、また良きお盆参りと言えるでしょう。

夏の風物詩である花火も送り火からの派生だそうで、線香花火を眺めながら想うもまた良きですねぇ。御先祖様も楽しかろう。


想う場所に制限は無く、必ずしも墓へ行かねばならぬということはありません。

しかし「じゃあ墓は不要か」と言えばそんなことは決して無く。
 
金子大栄氏の申す通り、想う人が在る限り人は生き続けます。

が、それは逆に言えば「想う人が尽きれば人は失くなってしまう」ことでもあるのです。
 
人の眼は外に向いて付いている故、目の前のことはよく覚えるが、見えない事柄は忘れてしまう。

しかし、たまにでも「思い出す」ことが出来れば、その存在は胸に残り続けるのです。

滅多に会わん名前も覚えてない親戚の子どもでも「大きくなったなぁ」とは思えるような、そんな心地でしょうか。
 
御先祖様も同じように、常に思い続けることは出来ずとも、たまにでも想うことが出来たなら、その存在を繋いでゆける。
 
その目印が『墓』なのです。

大切なことも忘れてしまう私達だからこそ、形を残し、お寺で集まってはその意味を「学び」思い出すことで、心を繋いで来ました。
 
後に生まれてくる人も必要とするであろう心の在り様を、そこに人は居ないけど「此処に居た」証では有るそれを、大切に繋いでゆきましょう。
 
なので、炎暑に無理をする必要は無いけれど、涼しくなったらお墓参りへ行きましょうね。
 
お盆はお寺へおいでませ。
扇風機を回し、お待ちしてます。

第7南組

慈泉寺 片岡妙晶