【仏青通信】お供えの心

郡家別院では若手僧侶の集まりである「仏教青年会」のコラムをまとめた『仏青通信』を配布しています。ホームページ転載にあたり、一部加筆、修正を行っています。

お仏壇の前にお仏飯をはじめお菓子や果物など「お供え」をされると思います。

このお供えにはどんな意味があるのでしょうか?

亡くなった先祖の方に食物を捧げて食べていただこうと思っている方もおられるかもしれません。

また、物を頂いた時や旅行のお土産を仏前に供える方もいれば、特に深くは考えてはいないけれど習慣としてお供えをしている方もおられるかもしれませんね。

今回はお供えの意味についてお伝えします。

お供えの意味とは

お供えとはなにか?を一言でいうと、今の私たちの生活が成り立っていることの感謝の心をあらわす行為なのです。

実はお供えにも格付けがあって、一番格上のお供えは穀物でできたものだと言われています。

日本人にとって穀物の代表はやはりお米です。

そのお米を炊いて供える「お仏飯」、そして米を使ってできる「餅」、「お菓子」などがそれにあたります。

その理由は、一昔前までは多くの人にとって生活の中心は農業でした。

今でこそトラクターなど農機具が発達して、少人数で米作りができますが、昔は親戚やご近所さんの協力なしに農作業はできないものでした。また、風雨や日照など自然の影響も米作りには大切な要素です。

人の力による苦労と、気象条件などのすべての縁が運良く整ってはじめてお米が収穫できるのです。

そのようなことから、

「私ひとりの努力ではこのお米は実らなかった、ありがたいことであった。」

という想いがうまれ、ご飯を炊いたときの最初の一杯をまず仏様にお供えしてから自分たちがいただくという形になったのです。

お餅やお菓子をお供えするのも同じ心です。

今の私たちの生活は自分ひとりの力で成り立っているのではないことを自覚し、感謝の心を示すのがお供えの心なのです。

故人に食べてもらうためじゃないの?

このことを考えると、亡くなった方に食べていただくためにお供えをするというのは意味が少し違いますよね。

浄土真宗では故人を「私たちに大事なことを教えてくださる仏様のひとり」と見て手を合わせますので、お腹をすかせたり喉が渇く存在とは受け止めません。

もちろん故人の好きだったお菓子などをお供えしていただくことは結構なことです。

われわれは故人の好きだった物や食べ物を通して故人のことを思い出します。

しかし、それは食べていただくためというよりは、そのお供えを自分たちが食べるよりも先にお供えし、故人のおかげでお育ていただいたことに感謝の心を持つことが大事なことなのです。

ですから、封をあけて食べられるようにとか、お酒が飲めるようにとコップについだりなどはしなくても大丈夫です。

お供えしてお参りがすんだらご自身で召し上がってください。

何より食べ物を無駄にしないことが大原則ですので、お仏飯なども乾燥して食べれなくなるまでお飾りしておく必要はありません。お供えして手を合わせお念仏した後、下げて召し上がっていただいたら結構です。

お供えを通して関わりあって生きることを学ぶ

現代は社会が複雑になり、自分の想像も及ばない多くのはたらきに支えられているという実感は持ちにくいのかもしれません。

そんな時代だからこそ、お仏壇は私を支えてくださっているはたらきへの思いをめぐらせ、感謝の念を育ててくれる場所として大事にしたいものです。

仏さまにお供えをすることを通して、食事ひとつとっても自分の力だけで手に入れられるものではないことを感じられる心を育てることが大切ですね。

第9組 善照寺 三原貴嗣