郡家別院では若手僧侶の集まりである「仏教青年会」のコラムをまとめた『仏青通信』を配布しています。ホームページ転載にあたり、一部加筆、修正を行っています。
私は最近、別院の法要では裏方の仕事を担当しています。その中の一つが音響です。
お勤めの声が堂内の隅々まで届くようにマイクを設置したり、布教使の先生のピンマイクの音量や音質を調整したりしています。
キーンという高い音(ハウリング)が出ないように気をつけながら、しかし声が小さくなりすぎないよう、少しずつつまみを動かします。
ご聴聞される皆さまが、音のことを意識せず、お話を聞けるように微調整をしています。

こうした仕事をしているせいか、他の場所へ出かけても、つい音の鳴り方が気になるようになりました。
講座を聞いていても、音が悪ければもちろん気になりますが、音が良い時ほど「良い調整をしているな」「あのスピーカーの配置が良い仕事をしている」と、そちらに意識が向いてしまい、肝心のお話の内容をあまり覚えていない、ということもあります。
せっかく内容がきちんと伝わるように準備されているのに、音ばかり気にして話が頭に入ってこないのは本末転倒だなと我ながら思います。
さて、重誓偈の中に「説法獅子吼」という言葉があります。
獅子のひと吼えがあたりを圧するように、お釈迦さまの説法は人々の迷いを打ち破り、目覚めへと導く、という意味の言葉です。
お釈迦さまの時代には、もちろんマイクもスピーカーもありませんでした。
最初は、ほんの数人に語られた声が、口から口へ、文字から文字へと受け継がれ、多くの人が「確かに聞いた」と感じたその積み重ねが、今の私たちにまで届いています。
現代は、一人の声を一度に多くの人へ届けられる時代になりました。
その一方で、あまりにも多くの声があふれ、何を聞き、何を大切に受け取るのか、迷いやすい時代でもあります。
だからこそ私は、せめて「ご法話を聞こう」と足を運ばれた方が、気持ちよくお話が聞けるよう、これからも調整を続けていきたいと思っています。
そしてどうか、音の向こうにある言葉に、耳を傾けてみてください。
すべてを理解できなくても大丈夫です。
何か一つでも、心に残るものを持ち帰っていただけたなら、これ以上ありがたいことはありません。
九組 善照寺
三原 俊亮
