さるべき業縁のもよおせば、いかなる振る舞いもすべし

郡家別院では若手僧侶の集まりである「仏教青年会」のコラムをまとめた『仏青通信』を配布しています。ホームページ転載にあたり、一部加筆、修正を行っています。

令和元年5月28日、川崎市多摩区のJR登戸駅近くの路上で連続殺傷事件が発生し、小学6年の女児と外務省職員の男性が刺されて死亡するという事件がありました。

男はまもなく現場付近で警察に身柄を確保されましたが、みずから首を刺していて意識不明の重体となり、その後、搬送先の病院で死亡しました。

容疑者が自殺してしまったことで、誰かを糾弾することもできず、どこにもやりようのない理不尽さと怒りが国中に広がっていたように思います。そんな事件の直後、ネットやテレビでもその行き場のない怒りがこんな言葉になってあらわれました。

「死にたいなら一人で死ね」

正直、私自身もとても短絡的に「どうせ自殺するつもりなら、無関係の人を巻き込むなよ!」と思ったことは事実です。自分にも子供がいますので、理不尽にもお子さんを亡くされたご両親の気持ちを考えると気の毒でなりません。

しかし、あとから落ち着いて考えると、被害者の方はもちろん、容疑者にも「死なないで」とすぐに考えられなかった冷酷な自分の姿に気がつきました。

「死にたいなら一人で死ね」というのは本当に冷たい言葉ですね。

想像することしかできませんが、あの容疑者だってそんな人生を歩みたいと思っていたわけではないと思うんですね。

本当なら人からも認められたかっただろうし、生きている喜びを感じて生きられるならそうしたかったと思うんです。

でもできなかった。

家族関係の問題、社会の問題が重なって、生きる希望を見いだせず、様々な縁が折り重なってあのような事件として表出してしまったのかもしれません。

その背景を考慮せず「一人で死ね」と考えてしまうことには恐ろしさがありますね。

そう考える前提として、自分は正常でまともな人間だという無意識の考えがありますし、何より怖いのは社会のために誰かの死を願っていたということです。

社会のために役に立たない人、人を傷つける人は死んでも構わない、そんな風に無意識に考え、公共の安全という理想を隠れ蓑に人を殺す事をよしとすることは、思い通りにならない怒りを他者を傷つける方向でしか発散することのできなかった容疑者とある種同じ思考なのかもしれません。

自分はたまたま法を犯さず生きてこれました。しかし、何かがひとつでも掛け違えていたらあの事件は自分が起こしていたかもしれない。

そのように改めて考え直すと歎異抄の十三条に説かれる「さるべき業縁のもよおせば、いかなる振る舞いもすべし」という言葉が改めて突きつけられる思いです。

お経に説かれる阿弥陀仏の浄土は誰かを排除して成り立つ世界ではありませんよね。全ての人がすくい取られ、それぞれの持ち味が活かされ力を100%発揮できる世界であります。

そのような浄土の世界を理想として考えているはずの僧侶が、排除の論理で考えてしまうんですから恐ろしいことです。事件をきっかけに、またひとつ教えを受け止めさせていただきました。

善照寺 三原貴嗣