郡家別院では若手僧侶の集まりである「仏教青年会」のコラムをまとめた『仏青通信』を配布しています。ホームページ転載にあたり、一部加筆、修正を行っています。
ようやくコロナウイルスの感染が落ち着いてまいりました。
マスクの着用ルールも緩和され、今年こそはコロナ前の生活を、と期待してしまいます。
思えばこの三年というもの、コロナに振り回された日々でした。
しかし、感染が落ち着いてきたとはいえ、コロナウイルスがなくなるわけではありません。
ワクチンや薬があるにも関わらず、インフルエンザがなくなっていないように、コロナウイルスも完全になくなることはないでしょう。私たちは、このウイルスと共存していくほかないと思います。
ですが、コロナウイルスによって気付かされたことがあります。
それは、私たちが普通だと思っていた、日常の生活が、「特別なことだった」ということです。
コロナの感染拡大に伴ってソーシャルディスタンスが叫ばれ、「人と会う・話をする・みんなで食事をする」などの活動が制限されました。
そうなってみて、あらためて、普通だと思っていた生活が、当たり前ではない、かけがえのないものだったと実感しています。
本当に大切なこと、かけがえのないものは、失ってみて、はじめて気付くものなのでしょう。
また、コロナウイルスの本当に恐ろしいところは、人と人との繋がりを絶ってしまうかもしれないところだと思います。
感染して死んでしまうのは、もちろん恐ろしいです。
ですが、コロナを抑えることができたとしても、人と人との繋がりがなくなってしまった社会は、味気ないものになるでしょう。
それはもう、社会とは呼べないかもしれません。
作家の司馬遼太郎さんは、このように言っています。
人間は、社会をつくって生きている。社会とは、支え合う仕組み、ということである。このため、助け合う、ということが、人間にとって、大きな道徳になっている。助け合うという気持ちや、行動のもとは、いたわりという感情である。他人の痛みを感じることと言ってもいい。やさしさと言いかえてもいい。
『二十一世紀に生きる君達へ』 司馬 遼太郎より一部引用
この助け合いが、コロナウイルスによって制限されてきました。
ですが、コロナが収まったら、これまで以上に、支え合い、助け合う気持ちが、高まってくれることを願っています。
そして、よく言われる言葉ではありますが、「人は一人では生きられない。誰か何かのお世話になって、生かされている」「今、私たちが生きていること自体が、奇跡である」という言葉を忘れずに、感謝の気持ちをもって、一日一日を過ごしてまいりたいと思っています。
第八南組 興泉寺
楠 正亮