【仏青通信】和を以て貴しとなす

郡家別院では若手僧侶の集まりである「仏教青年会」のコラムをまとめた『仏青通信』を配布しています。ホームページ転載にあたり、一部加筆、修正を行っています。

昨年の話にはなりますが、開催が危ぶまれていた東京オリンピック・パラリンピックも無事に終わりました。

私も本当に開催できるのかと思っていましたが、選手の姿を見ていると開催されてよかったなあと思います。また、多くの選手から開催への感謝の言葉が聞かれたのも印象的でした。

オリンピックの開催に多くの反対があったことは承知しています。

しかし、オリンピックの開催を待ち望む人たちがいたこともまた事実です。

賛成、反対、それぞれに意見があるのは当然です。

ただ、自分と意見が違うからといって、相手を徹底して叩くというのは悲しいことです。

最近、特にインターネット上で、誰かを誹謗中傷するということが増えています。

なかには、それが原因で自殺される方もあります。

相手が亡くなるまで、しかも亡くなってからも叩き続けるのは異常です。

コロナ禍のなか、こうした行いはますます増えているように思います。

それだけ人々の心から余裕や、ゆとりがなくなってきているんでしょう。

そこに欠けているのは、寛容の精神ではないでしょうか。

寛容とは、きびしく責め立てることはせず、広く受け入れることです。

意見の違いは身近なところでも多くあります。

新聞に、このような投稿がありました。

お墓にお参りするといつも猫がいる

猫をなでている人がここに来るのが楽しみだという一方で

お墓をトイレにされて憤慨している人もいる

どうでしょうか。

物事にはさまざまな側面があります。いい、悪いというのも簡単には言い切れません。

私もそうですが、人は自分にとって都合がいい、悪いで物事を判断しがちです。

「いい人わるい人、私の都合でいいわるい」という言葉もあります。

自分の都合だけで考えるところに争いが生まれてくる、そのように思います。

今年は聖徳太子が亡くなられて1400年に当たります。

聖徳太子は「和を以て貴しとなす」とお示し下さっております。

これには「納得いくまで議論を深めなさい」という意味もあります。

自分の意見をただ押し付けるのではなく、相手の意見にも耳を傾けること、これが大切ということなんでしょう。

今、こういう時代だからこそ、あらためて聖徳太子の思いにふれていただければ。そう願っています。

第8南組 興泉寺
楠 正亮