郡家別院では若手僧侶の集まりである「仏教青年会」のコラムをまとめた『仏青通信』を配布しています。ホームページ転載にあたり、一部加筆、修正を行っています。
あの長い夏休みが始まる七月下旬、小学四年になる息子が理科の授業で星座を習ったようで、夏休みの自由研究は月を観察したいと意気込んでいました。
私も前々から土星の環をこの目で見てみたいとの思いがあり、よし!わかった!お父さんと星を観察しよう!と天体望遠鏡を購入することになりました。
メルカリ(個人が不要なものをアプリやパソコンで売ったり買ったりできるサービス)で、中古の望遠鏡を探していると、ある商品の説明に、
「天体観測面白いかなと思って購入しましたが、全然面白くなくてその後、押し入れに片付けていました。」
と、なんとも素直な販売者の性格に惹かれて、この望遠鏡を購入しました。
そして、夏休みの間、月の満ち欠けや、土星、木星を観察し撮影しました。
観察し始めて数日経った夜、いつも通り月を観察していると、息子が夜空を見上げて言いました。
「イェンはどの星になったんかな?」
我が家では犬を飼っていたのですが、今年の一月に亡くなったばかりでした。
「あっちかな?こっちの星かな?」
と指差し、イェンを偲んだのでした。
私はふと、ある言葉が思い浮かびました。お笑いコンビ・オードリーの若林正恭さんの著書『表参道のセレブ犬とカバーニャ要塞の野良犬』に、自身の亡くされたお父さんに対する思いを、
「亡くなって遠くに行ってしまうのかと思っていたが、不思議なことにこの世界に親父が充満しているのだ。生きている時よりも死んだ後の方が近くなる。」
これと同じで、イェンの姿はもう無いけれども、一つ一つの事実の上にイェンを感じる事ができます。
息子は星を見ることで、イェンを思い起こしたのでしょう。
イェンの姿はもう無いけれども、あらゆる姿形をとって私たちに大切な事を教えてくれています。
私の命は限りがあるという事、私自身もたくさんの事実が今の私となっているという事。
限定された姿形をとらずにあらゆる姿形をとって私たちを導いてくれている、そういう存在にイェンはなったと受け止めていきたいと思います。
今日もイェンのお世話道具が入っていた引き出しを開け、まだ残された香りに、イェンの鳴き声を聞いたのでした。
第九組 光明寺 直井了純